「コンサルタントの選び方」

今月は「コンサルタントの選び方」について書いてみたいと思います。

<起業時は経営よりも商売>

会社が小さいうちは「買ってくれるお客様」と「売り物(技術・商品・サービス)」があれば商売は成り立ちます。
実は会社が小さいうちは「経営」はあまり必要ありません。会社が小さいうちに重要なのは「商売」です。

このため起業して成功するオーナー経営者には「強力な営業力」を持つタイプと「売り物(技術・サービス・アイディア)」を持つタイプが多いと言われます。
「買ってくださるお客様」と「商品」があることで、会社の立ち上げ期にまずは必要な「売上」を確保しているからです。
内部管理にのみ長けている方が企業した場合、このような「売り先」と「売り物」を初動で確保し、手堅く「現金化」できず、どんどん資本金を目減りさせてゆきます。

<会社は一定規模から経営が必要になる>

最初少人数で始めた会社が順調に業績を伸ばし、お客様や社員が一定以上に増えると「経営」が必要になってきます。人事、経理、財務、ビジネスプロセス、購買、総務、商品開発、プロモーション等々、様々な間接部門の仕事が発生してきます。
経営者は、いつしか拡大する組織の中で、中長期の経営戦略を考えざるを得なくなってきます。

しかしこの時点までは、経営者自身も経営戦略など考えたこともないという方も割合に多いのです。

そうして中長期の経営戦略が必要と感じてきて「誰かに相談しよう」と思って社内を見渡してみると、経営戦略について相談できる社員は存在しません。立ち上げ期に経営戦略が立てられる社員が社内にいることはまずありません。そもそも経営者にアドバイスができる社員であれば、その社員は経営者と同等以上の認識力を持っているはずです。

「そういう人がそもそも自分の下で働いてくれるだろうか」と冷静に考えたときに「社内にはいないのが当たり前」ということがわかります。 しかし経営戦略は考えなくてはならないことに変わりはありません。分かっていながらも時には社員にないものねだりをしたりしつつ、経営者はひとりウンウン苦しみます。

<経営者の相談役「コンサルタントの選び方」>

そんな時に、企業の外部ブレーン・参謀であり、経営戦略面におけるプロフェッショナルである「コンサルタント」は強い味方となります。
一口にコンサルタントと言えど、業界によっても実に様々で、その個性は十人十色です。そして一般的に「一流」と言われるコンサルタントは個性の強い人が多いようです。
したがってコンサルタントを用いるにあたっては留意点が必要になります。

コンサルタントは、組織に向かない「片寄った性格」のほうが有能である場合があり、知識豊富で優しく、人物として非の打ちどころがない人が良いかと言えば必ずしもそうではありません。それは経営者も同じで、経営者(社長族)も、コンサルタントに負けず劣らず片寄った性格の方が多いと言われています。

短所は長所の裏返しであり、欠陥は同時に特徴でもありますので、組織に向かない性格のコンサルタントを上手に用いることは、コンサルタント起用で成果をあげるために大変重要なポイントのひとつです。
これは「経営者がどう用いるか」で、コンサルタントが同一人物であっても、組織ごとに業績に雲泥の差が出てくる可能性があることを指摘しているのです。

では実際にコンサルタントを選ぶ際、どのようなポイントに留意すれば良いのでしょうか。
以下にコンサルタントを選ぶ際の重要な評価基準についてご紹介します。

1. 指導する会社を決して潰さないという「強い信念」がある人か
2. 「講演・教育の人」「指導・相談の人」「本の人」と分類した場合、どの分野の人か
3. 自分との相性を考えた場合「相性が良いか」、人物・性格は直感的に見て「陽の人か」「陰の人か」
4. 経営を思想と手法と考えた場合、「思想の人か」「手法の人か」、またその思想や手法は「実戦向きか」
5. 指導は「本人が行うか」それとも「部下が行うか」
6. 指導する会社は「一業種一社であるか」「競争会社の指導も行う人であるか」
7. 規則や制度や管理などを得意とする「内部管理型の人か」、商品や市場や売上利益などを得意とする「外部志向型の人か」
8. 「大企業向きの人か」「中小企業向きの人か」
9. 「専門分野の人か」「総合的な人か」「専門のうち特に何に強い人か」
10. 「メーカーの人か」「流通の人か」
11. 「社長向きの人か」「社員や管理職向きの人か」。実際に会社を経営できそうであるか、また、経営した経験があるか
12. 指導料・契約は「顧問契約か」「一回一回の指導料、回数契約か」「成果報酬、成果による契約か」

上記12項目と、会社の状態や業態、経営者自身の性格、依頼する内容や分野、事柄とこれらの評価基準を比較・検討することで、大きく判断を間違うことは減少します。

これらを踏まえて考えると「高いFeeを払って契約したコンサルタントなのだから、すべて任せておけば業績が向上する」という用い方は誤りであることがわかります。経営はあくまで経営者の責任において行われるものであり「なんちゃってコンサルタント」を選んでしまい、後で苦い思いをするのは他ならぬ自分自身なのです。
このためコンサルタントの「実力」や「得手・不得手」を知ったうえで用いることが大変重要です。

また、コンサルタントの考え方、知識、技量を判断したうえで、会ってみて直感的に「相性」が自分と合うかどうかも決定の重要ポイントとなります。

どんなにそのコンサルタントの著書に惹かれても、講演を聞いて感動しても、実際に会ってみて「嫌いになりそうだ」と直感した場合には、指導を受けるべきではありません。このあたりは男女の仲、結婚にも似たものがあります。 コンサルタントに指導を受ける原点は「好き」か「嫌い」か、とも言えそうです。

コンサルタントもそれを選ぶ経営者自身も「感情の生き物」である「人間」が行うものであることに変わりはありません。「知性理性」「論理的合理的な視点」だけで判断をしてしまうと、思わぬ失敗を招くことになりそうです。

(出典:「社長業」牟田学 産能大出版部)

(紺)

「経営者の勇気について」

今月は「経営者の勇気」についてコメントしてみたいと思います。

「勇気は経営者の必須条件である」と言ってこれに反対する人はいないでしょう。社員が困難と感じている時に、自らが率先垂範を見せるのは勇気です。誰もが気づいていながら、誰もが言いださない会社の悪弊を指摘してきた社員の諫言を受け止めるのも勇気でしょう。

勇気は思い立ち行動したときに現れるものですが、その勇気にも幾通りかの発揮の違いがあるようです。

第一は「克己の勇」です。

「勝ち難きは己私(きし)に如くは莫し」(自分の心に打ち勝つことがもっとも難しい)という言葉があります。これに似た格言として、知行合一(ちこうごういつ:知っていて行わないことは、知らないことと同じである)があります。
これを唱えた明の王陽明も「山中の賊は破るは易く、心中の賊は破るは難し」という言葉を残しています。

人間社会には到る所に競争があります。しかし相手との戦いと見える事象は、本当は自分自身との戦いであるということ、「自分に打ち勝つ勇気が経営者の勇である」ということを、克己の勇は教えています。

第二に「過ちを改める勇」があります。

権限や体面を保つために、自分の誤りを改めようとしないことは愚かです。それは“威”“信”“財”を失い、小器(小人物)の陰口を得る行いです。
自己反省ができないことに対する格言は多く「過ちて改めざる、是れを過ちと謂う」(論語)や「過ちて能く改むるは、民の上たり」(過ちを犯して、これを改めることができる人間は、よく民を治めることができる)などがあります。

反省とは自己革新のことであり、自己革新とは、古い自分、過てる自分を自己否定することにあります。
この自己革新は、ドラッカーの言うイノベーション(体系的廃棄)に他なりません。自らの過ちすら改められない経営者には、会社のイノベーションは到底できないと言えます。

第三に「撤退の勇」があります。

経営者は“敗れる”“倒れる”“逃げる”“損する”“撤退する”など、自らの名誉にかかわる文句を嫌います。しかし一度も失敗をせずに大事を遂げた者はいません。
あの徳川家康は「逃げの家康、天下取る」と言われたほど、破れては逃げる経験をしています。一時の敗退を嫌って撤退の勇を欠いた経営者は、最後の勝利を得ることはできません。

撤退の勇がある経営者は、捲土重来(一度敗れて、再び勢いをもり返すこと)の勇もある、真の勇者ということになります。

撤退の勇にともなう「判断・決断・即断行の三断」を実行できない理由は、第一に「自己過信」、第二に「体面、意地にとらわれること」、第三「目先の小さな損にとらわれること」、第四は「安易な考え」です。第四は「そこまでしなくても、なんとかなるだろう」という類の、経営者の根拠のない楽観主義や、責任感のない姿を表しています。

危機管理の鉄則はつねに「悲観的に準備して、楽観的に対処せよ」が正しいのです。

第四は「新天地開拓の勇」です。

経営者の責務は「災いを未萌(みぼう)のうちに除き、勝を百年の遠きに決すること」です。
これは、将来、会社の災いになるようなものがあるならば、まだ芽の出ないうちに取り除き、百年後も安泰成長をとげるような経営基盤を築くことに日々心を砕く、という意味です。

前提として、何が災いで、何が新天地を拓くものなのかを見極める深い人間洞察と見識が求められます。これが企業文化(思想、カルチャー)となって現れます。

カルチャーとは「田畑の土壌」です。「その組織の土壌ではどのような種(考え方)がよく育つのか」、そしてその組織で育った「果実」を見れば、もととなるカルチャーが一体何であったのかがわかります。

もし、いまある果実が自らの望むものでないのなら、もととなる土壌、土壌をつくる経営者の持つ思想を点検し、間違いがあれば改めることが大事です。果実という結果だけが素晴らしいということは原因結果の法則から考えてもあり得ないことなのです。

第五は「匹夫の勇」です。

孫子の兵法は彼我の兵力分析をしたうえで「勝つ見込みがないならば戦わない」と教えています。勝ち目のない戦いでは、たとえ臆病のそしりを受けても部下を犬死させずに撤退を決断するのが真の勇気です。

これに対して匹夫の勇は、外見を飾ったり威勢を示すような形で現れます。
そして「匹夫辱めらるれば剣を抜きて起ち、身を挺して闘う、此れ勇と為すに足らざるなり」と言われるように、凡人が辱められて勇を奮う姿は、カマキリが足をあげている程度にしか見えず、真の勇と言えるものではありません。

大胆な提言や威勢の良い発言をして、いかにも勇気があるように見せる経営者がいますが、これらはチャンス到来を耐えて待つ経営者の勇気にはとうてい及びません。

匹夫の勇は「私心」であり、真の勇は「公心」をそのもとにします。「義」を先にした勇、会社のために行う勇気が真の勇で、自分の利だけにする勇は匹夫の勇と言えます。

経営者が勇を行えず、優柔不断になると「会して議せず、議して決せず、決して行なわず、行って責任を取らず」となり、その会社は余命いくばくもなしということになります。

事が大きくなればなるほど判断は苦しく決断しかねるものですが、過つことなく大局的な判断をするためには「自分を捨てる覚悟」を持つことが肝要です。経営者の小さなプライドを捨てる覚悟、「無私」なる境地を学ばなければ大事は成せないと言えます。

勇についていろいろ書き綴ってきましたが、筆者は、経営者にとっての勇とは「画竜点睛に欠く」(がりょうてんせいにかく)という言葉にヒントがあるように思います。

中国南北朝時代、南朝の梁の国に、張僧繇(ちょうそうよう)という絵の大家がいました。彼が金陵の安楽寺の壁に二匹の竜を描いて、一つの竜に最後に睛(ひとみ)を書き入れたところ、その竜は黒雲を巻きおこし、天上に昇ってしまったが、睛を入れなかったほうの竜はそのまま残っていたという伝説があります。

これは「仏つくって魂入れず」と一緒で、組織や計画、社員への指示にも「竜の睛」を入れなければ、その組織も計画も生き生きと動き出すことはなく、会社の真なる飛躍もないことを教えているようです。

竜の顎(あご)の下に鱗(うろこ)があり、これを「逆鱗」(げきりん)と言います。これにふれない限り竜にかみつかれることはないそうですから、筆者も勇気を持って竜に睛を入れ、理想の会社を目指してゆきたいと思います。

(出典:人の用い方 井原隆一)

(紺)

「ピンチの法則」

今月は「ピンチの法則」について書いてみたいと思います。

どんな小さな会社でも、経営者は一国一城の主です。少ない社員数であっても、経営者ならば、自分を信じて入社してくれた社員と、その家族の人生に大きな責任を感じています。経営が順調な時は、社員の喜びを我が喜びとし、生きがいをもって社長業に励むことは容易いでしょう。

この心境を保つのが困難になるのが「経営的ピンチ」に陥った時です。

経営者は業績が悪化し資金繰りに窮し、先の見込みが立たなくなってくると、いつものように冷静な判断ができなくなりがちです。ほとんどの経営者の皆様は、ピンチの中、日々焦燥感に駆られて「夜も眠れない」経験をされたことがあるのではないでしょうか。そんな時には茫然自失として、周囲の助言も耳に入らなくなることもあるかと思います。

しかし好調不調というものは周期的にやってくるものです。

「朝の来ない夜はない」のですが、不安に駆られるあまり、言わずとも良いことを社員に言い始め、やらずとも良いことをやり始めます。例えば、急に値下げをしてみたり、組織をいじり始めたり、誰かに責任転嫁をしてやり玉にあげたり、苦しさから、およそ理性的とは思えない行動をし始めることがあります。

経営者によっては、現状の苦しさのあまり起死回生を狙い、本業とはまったく関係のない「門外漢」の商売に手を出し、「チャレンジすれば打開の道が拓けるのではないか」などと淡い期待に社運を賭ける方もいらっしゃいます。しかし「本業から逃げるような精神状態」で始めた商売というものは、そのほとんどは上手くいかないものばかりです。

ピンチとは法則です。
人生においてピンチが一度もないということはありません。
ピンチは誰にでも必ず訪れます。

そしてピンチは経営者にとって、永続的に発展してゆくために絶対的に必要な「竹の節」のようなものです。「ピンチの法則」を知っておくだけでも「経営の転ばぬ先の杖」として大変役立ちます。

- ピンチの法則 -

1) ピンチは人生のリズムのようなものなので周期的にやってくる。用心・予防しても、すべてを避けることはできないことを心得ておくこと。

2) ピンチに陥るときには、身辺に起きることがどれもマイナスに働くので八方塞がりに感じるものである。

3) ピンチに陥ると、奈落の底にでも落ちるような不安に襲われるが、それは心理的なものに過ぎず、必ずどこかで底に足が届く。しかしそれには必ず一定の時間の経過を要するものである。

4) ピンチの折り返し地点は、恐怖に陥って想像したよりもかなり上のほうにある。つまり人間は自分で考えた最悪のところまでは、なかなか落ち込まないものである。

5) ピンチから這い上がるきっかけは、ピンチに陥る前に考えていたようなところからは生まれてこない。苦しみに鍛えられ、苦しみが薬になってはじめて次の対策が生まれるのである。

(邱永漢著 『朝は夜より賢い―私の体験的ピンチ脱出法』
、PHP文庫)

経営者の力量に「損に耐える力」というものがあります。

経営者となって幾度かピンチを脱出した経験を積まないと、この「胆力」は鍛えられないもののようです。経営者も有段者にならないと、ちょっとした損でも「これが未来永劫続いたらどうしようか」という不安感に襲われてしまいます。そんな時にも顔色ひとつ変えずにジッと耐えて、打つべき手を淡々と打ってゆくことが、この「胆力」を鍛える修練となります。

「時間に勝る名医はない」とは言いますが、耐えることは実に難しく、経営者の大事な徳目のひとつです。

筆者も拙い経験ではありますが、ピンチと思える状況に何度か遭遇したことがあります。そんな時は、すべての重要な判断をいったん棚上げして、心を落ち着けるために先人の智慧を学ぶように努めています。

「吾かつて終日食わず、終夜寝ず以て思う、益なし、学ぶに如かざるなり」
(私は以前、食わず寝ずに考えたが、読んで学んだことには及ばなかった)
「論語 衛霊公篇」

聖人孔子でさえこう言っていますので、この方法がもっとも良いように思います。
ピンチの時こそ、楽観的に考えて「泰然自若」としていたいものですね。

最後に、筆者がピンチに陥った時に読み返す言葉をご紹介いたします。

- 朝は夜より賢い -

夜考えることは過激すぎるか、悲観的になりがちです。
君よ、考え疲れたら、ベッドに入りなさい。
明日から先のことについては、朝になってから考えてもまだ充分、間に合います。

(邱永漢著 『朝は夜より賢い―私の体験的ピンチ脱出法』
、PHP文庫)

(紺)

「富について考える」

<富とは何か>

今月は「富」について考えてみたいと思います。

「富とは何か」について正面から聞かれると、漠然として良くわからないという方も多いのではないでしょうか。

その理由のひとつとして、富について、なかなかその本質を端的でわかりやすく「スバリ」説明している書籍がないことがあげられます。
その意味で実際に富を築いた先人が遺された書籍は大変貴重ですが、それらを読んでその考え方、その方法論を実践したら、果たして本当に効果があるのかどうか? 
結局は自分には関係のない別の世界の話なのではないか?などと考えたことがある方もいるのではないでしょうか。

富は、人生を豊かにするうえで大変重用な要素です。
企業は有益なサービスを社会に提供することで富を創造しており、その富でさらなる社会貢献をめざします。
社会をよりよくするためには、発展の原資(コスト)としての富は必要不可欠なものです。

「富の源泉」として「知識」があげられることがあります。

知識は「結晶化」「体系化」し、さらに「財産価値化」してはじめて富に変換されると言われます。
これは「知っているだけでは知識は富を生まない」ということを鋭く指摘されている智慧の言葉です。
確かに「博学ではあるがお金持ちになれない方」というのを筆者も知っています。

<富の本質>

前置きはさておき、富の本質とはいったい何なのでしょうか。

わかりやすく定義するとするならば

「多くの人々の役に立っている」
「多くの人々から感謝されているか」

すなわち「有益性」ということが富の本質です。
社会のニーズを満たす仕事をしていくと、富はそこを目がけて集まってきます。
「富は社会のために有益な仕事をする人や企業に好んで集まる」という本質を持っているのです。

要するに「あなたの会社のおかげで本当に便利になりました」と感謝されれば、その会社には富が集まってきて発展するということです。

そして集まってくる富には3種類あります。
「お金、智慧、人材」です。

お金だけを富だと思うのは誤りです。
この3つは相互に他の富を呼び込みますが、すべて「社会に必要とされる有益な仕事」に集まってくる性質は同じです。

さらに富は苦難困難の姿で現われることもあります。
苦難という悪魔の顔を一皮むけば、実は天使の微笑みであったということはよくあることなのです。

人は単に自分に都合の良いことだけを求めがちですが、艱難辛苦は「富を得て維持できる器づくり」のために必ず必要です。
富を得るために必要な「器」が自分自身に備わっていなければ、富はそこに住まうことができないのです。

<富を否定する考え方>

次は視点を変えて、富を否定する考え方の点検をしてみたいと思います。

「貧乏神」と言っては怒られるかもしれませんが、実は無意識に富(会社で言えば収益)を否定してしまっている方が多いのです。
「まさか自分は違うだろう」という方も、一度は自分を疑ってみていただきたいと思います。
本当に気をつけていないと「発想において富を増やすことに賛成しないどころか、拒否する考え方」が入っていることが結構あるのです。 

以下はその「富を否定する考え方」一例です。

*
契約についてのキーパーソンに会えているにもかかわらず、わざわざ成否の鍵を握っていない人に一生懸命交渉している
*
せっかく契約の話がきているのに「忙しくて受けられないから」という理由でわざわざ断っている
*
売上や利益の大小、重要度などの優先順位にかかわらず「同じスピードや行動、品質、サービス」を提供していないか(考えること(智慧)の放棄)
*
直接売上に関係しない仕事やミーティング、社内活動を一生懸命増やしていないか(社内には売上も利益もない)
*
お客様の要望を後回しにして、社内ルールを優先している(顧客不在)
*
利益にならない管理を増やし、ビジネスのスピードを遅らせていないか
(最小限管理が正しい)
*
自分の会社が儲からなくてもお客様に還元すべきだと思っていないか(永続性についての考えの欠如)
*
コスト割れの見積もりを独断で出していないか(会社の利益構造の潜在的問題があるかもしれないのに上申していない)

いかがでしょうか?
思い当たることはありませんか?

これ以外にも事例はたくさんあると思いますが、私たちは「自分の仕事は富(利益・収益)にどう貢献しているのか」を考えないで仕事をしていることが多々あります。
自分の仕事と収益との因果関係が直接的に見えないので、誰からも指摘されないでいる場合が多いのですが、これを客観化する方法はあります。

それは「自分の仕事をアウトソーシングしたらどうなるか」を考えるとわかるのです。

「アウトソーシング不可能な、自社固有の付加価値の高い仕事、知識、能力、判断」を発揮することで、会社への貢献度が高まります。
上司や同僚から「感謝される仕事」をすることで、自分自身が富が集まりやすい存在となることができます。
そのような人たちの仕事の総和として、その会社の社会的貢献度もあがり、富があつまりやすい収益体質へと変わってゆくのです。

かつて財務省の前身である大蔵省時代は、銀行が行うサービスを大蔵省が手取り足取り決めていたそうです。

「お客様にサービス品として渡すマッチの大きさはこのサイズ」「お客様にお茶は出しても良いがコーヒーは出してはいけない」とか「テッシュをつけるか、つけないか」など、およそ役人が決めることではない箸の上げ下ろしにまで口を差し挟んでいたとのこと。これらは単に経済の発展を遅らせてしまうだけで、およそ富を生みだす仕事ではありません。
「発想において富を増やすことに賛成しない。拒否する考え方」を潜在的に持っている方の行動であることも知っておくべきでしょう。

筆者も「富の創造」を肯定し、勤勉に努力して社会に貢献してまいります。

(本文は、違法行為や社会的に尊敬されない方法で得られる富については除外します)

(紺)

「不況の乗り切り方」

今月は「不況の乗り切り方」について、一般的な経営の手の打ち方という観点で参考になるかと思いますので書き進めてみたいと思います。

まず好況期・高度成長期には、売上がどんどん拡大し、それにともなって組織もどんどん大きくなります。
好況化は組織が拡大してゆきますので、経営者が部下に対して権限委譲を進めないと、
成長するビジネス環境下において、仕事はまわらなくなってゆきます。

経営者と社員の間の階層構造がボトルネックとなり、各所の判断に必要な情報伝達を遅らせてしまい、成長のスピードに追いつけなくなるのです。
売上が拡大している時期においては、多少の能力不足があっても部下に権限委譲すべきであり、
権限委譲しないほうが組織にとってのデメリットが大きくなるのです。

しかし不況期に突入するとこれが真逆になります。
不況期にはこの権限委譲型が破綻することが多いので気をつけなければなりません。

欧米型企業は好不況にかかわらず権限委譲型の組織論を採用しているところがほとんどですが、どんな経済環境でも権限委譲型が良いわけではありません。
不況期にはこの逆の“大政奉還”で権限を上位マネジメントに戻すべき時なのです。

部長は役員に、役員は社長にと、委譲されていた権限を戻し、トップダウンで組織の締め直しをすべき時なのです。
その際トップが可能な限り社員の動きを克明につかみ、現場から目を離してはいけません。
現場、得意先、仕入先などを直接見てまわるという対策をなすべきです。

そして部下にあっては社長や上司が誤った判断をしないように、的確な現場情報をあげていく義務を遂行することが大切です。
これが不況期に大事な考え方です。

成長期の「経営が容易なとき」には権限を委譲し責任も部下に降ろして行って良いのですが、
経営の厳しい不況期では、その逆で「トップが責任を負う体制」にし、トップダウンで経営判断のスピードと質ををあげてゆかなければなりません。
およそ300人程度の規模の会社であれば、新規事業においてもトップの決断で進めてゆくことが経営効率上においても望まれます。

また不況期の注意点としては、いろいろなものにエネルギーを散らさないことも重要です。
多角化戦略は成長していくときに将来のリターン、果実を期待し苗木を植えてゆく考え方です。

不況期はとかく苦しい時期であるために「何か全然違うことをやればあたるのではないか」と、思いつきでいろいろなことに手を出したくなる誘惑にかられることがあります。

しかしこの判断は業績悪化のもとになりますので慎むべきです。
不況期の対策としては「いちばん高収益体質を持っている部門、あるいは商品」を伸ばしていくことが正しい手の打ち方です。
いちばん強いところをさらに強くすることに全力を投入し、むやみな拡張はしないことです。

さらに不況期はとかく「経費削減」に走りたくなりますが、この方法では企業体力自体が弱り「いざ業績回復」というときに、リバウンドする体力そのものを失う恐れがあります。
もちろん適切な経費削減は必要ですが、考え方として最も大事なことは「最強の部門、いちばん収益をあげている部門を徹底的に強くする」、いわゆる「集中と選択」です。

守備はとても大事ですが、守備だけで勝ったサッカーチームもなければ野球チームもありません。
企業もまた然りです。攻撃をしなければ得点は入らず、収益もあがりません。
この意味で不況期には直間比率を変え、収益をのばすために直接部門の人数を増やすこともよく採用される打ち手です。

要するに“商売部門”、つまり売上や利益を生み出す直接部門へのリソース配分を高め、売上・収益拡大のための行動の質と量、スピードをあげることが重要です。

厳しい不況期に、守備を固めつつ攻撃も打つ。
これを実現するには、守備と攻撃の「集中と選択」が重要となります。

経済環境自体は、私たちの自助努力で好転できる範囲のものではありません。
しかし考え方としては「世界大恐慌の時でさえ成長した会社はあったのだ」という積極的なマインドセットがとても大切です。
自分の会社がうまくいかない理由を、一般的な環境要因のせいにしても仕方のないことであるならば、自助努力の範囲の中でどうしてゆくかを考えてゆくべきです。

松下幸之助氏は「好況よし、不況さらによし」と言いました。
松下氏は「不況期は、何をやってもうまくゆく好況期には気づかない経営の脇の甘さを教えてくれる」という逆転の発想を持っていました。

松下氏はこの経営の悟りで経営者が不況期に戒めなければならない2点、
「見通しの甘さ(人まかせ型、運まかせ型)」と「お人好し(適材適所が断行できない)」を克服しています。
そして強い社会的公的使命感で、心を鬼にして不況期の経営を乗り切ったとの逸話があります。

好況期は経済全体が成長しているため、何もしなくても売上が伸びてゆきます。
このため本当は「まずい経営」をしていてもそれが露呈しない場合が多いのです。
しかし不況期には「経営者の本当の実力」があらわれてくるものです。

これらは会社を例にとってのコメントです。
しかしながら、「数名の人」がいれば、それは組織です。
どんなに小さなチームでも、家庭の経営でも「原理原則」は同じです。

筆者も「経営の原理原則」について大局観を磨き、判断力を磨く努力を継続してゆきたいと思います。

(紺)

「人材登用の鉄則」

今日は中国の故事から「人材登用の鉄則」についてコメントしてみたいと思います。

中国の史書に「戦国策(せんごくさく)」というものがあります。主として戦国時代の説客たちの権謀術策を集めたものです。
「鶏口(けいこう)となるも牛後(ぎゅうご)となるなかれ」といって六カ国の合従(がっしょう)に成功した蘇秦(そしん)、
その合従を破った張儀(ちょうぎ)など、当時の優れた策士の物語などが記されています。
その中に斉(せい)の宣王(せんおう)と、説客の王斗(おうと)との有名なやりとりがありますのでご紹介します。

案内され奥に入った王斗に、王が
「私は先君の宗廟(そうびょう)を守り、一国の政治をあずかっている。先生は誰に対しても直言する方とうかがっておりますが」
と話しかけた。

王斗はそれに対し、
「とんでもない。なにしろ乱世に生まれ、ろくでもない君主に仕えるのです。うかつに直言するなど、とてもできることではありません」

これを聞いて王の顔はありありと不機嫌になったが、王斗はおかまいなしに続けた。

「ご先祖の名君、桓公(かんこう)には好きなものが五つありました。それによって桓公は諸侯に号令し、覇者となった。
いま、あなたが好むものは四つあるようです」

「いや、私は斉の国威の失墜することだけを恐れている。とても四つなどおよびもつかないことだ」

「いやいや桓公は馬を好んだ、犬も好んだ。あなたも馬、犬ともに好き。また桓公は酒を好み、女を好んだが、
あなたも両方とも好き。ただ、桓公は人材を好んだが、あなたは人材だけは好まない」

「いまの時代に人材はいない。好もうにも好めないではないか」

これに対し王斗はこう言った。

「いまの世に麒麟(名馬)はいなくとも、あなたは馬車馬に欠くことはない。名犬はいなくとも飼犬に不自由することはない。とびきりの美女はいなくとも、後宮は女であふれています。あなたが人材を好まないだけのことで、人材がいないなどとはとんでもないことです」

「そういうな。私は人材を招いて、よい政治をとりたいとばかり願っているのだから」

「王はそう言われますが、民(たみ)より絹(きぬ)を愛しているように思います。絹の冠をつくらせる場合、お側に仕えている家臣ではなく専門の職人を使うのは、専門職人のほうが上手につくるからです。ところが国を治める場合には、おべっかの上手な、いわゆるおべっか専門の家臣だけを用いています。それで民より絹を愛していると申しあげたわけです」

ここで王斗の言わんとしたことは、

第一に
「人材を登用しようとするなら人材を愛しなさい。人材を好まぬ王のもとには人材は集まらない」ということです。

第二に
「冠をつくらせるなら技術に優れた者を使え」ということで、「情実よりも能力、実力主義に徹するべきだ」ということです。

(出典:井原隆一 人の用い方)

天は人間に必ずなにか世のために役立つ才能を与えてくれています。
この才能をどう見出すか、そして、その人の役立つ点をどう伸ばそうとするのか、という温かい心以外に「人材登用の鉄則」はないという訓戒を含んだ故事のご紹介でした。

面白いことにドラッカーもこの故事に似たような言葉を残しています。
晩年のドラッカーは人材を「無限に成長する資源」と言い、企業における良い人間関係とは
「仲の良さではなく、成果をあげる人間関係である」と指摘しています。

社員の立場に立って考えた時、「自分を無限に成長する資源である」と見て扱ってくれる経営者のもとで働きたいと思わない人は少ないでしょう。

また「情実ではなく、成果である」という言葉も、「実力主義」とほぼ同義です。
ドラッカーは「少々の性格的欠陥、相性による言い合い」などがあったとしても「成果が出る」ことが企業における正しい人間関係であると言います。
企業経営は投下した資源以上の付加価値(成果)をあげることで、はじめて存続できることを考えれば、
組織も「成果」を中心に据えて組み立てることは当然です。
しかし様々な情実的理由により原理原則が適用されないことがあります。
その情実を優先する経営者の判断は、とりもなおさず「成果から遠ざかる」成果としてあらわれてしまうものです。

王道は世にその徳を讃えられ長く賞讃されるものです。
中国の故事とドラッカーに共通項があることを考えるにつけ、経営を進めるうえで大変重要なリーダーシップについても、
どうやら法則がありそうです。

(紺)

「考えには力がある」

自己実現の書籍ではよく「考えには力がある」という言葉が使われます。成功する人はその「成功の種子」であるところの「考え方」によって成功するのだと言われます。書籍もたくさん出ていますし、よく人口にも膾炙します。しかし自分のこととして考えたとき、いったいどれほどその力を実感したことがあるでしょうか。

以下の松下幸之助さんの逸話を読みますと「考えには力がある」という発想が、何か特別な能力を生まれつき持っている人だけに当てはまることではないことがよくわかります。経営を行ううえでも大変参考になると思われますのでご紹介いたします。

<立志> 
松下幸之助が「ダム式経営」を説いていた1965(昭和40)年頃の話です。松下は、京都の経営者を対象にしたある講演会で、例によって、資金、人材、技術等のダムをつくり、余裕のある経営をしていこうと訴えました。

質疑応答の時間に、1人の経営者が、「ダム経営をしなければならないのは分かるのですが、そのような余裕がないから困っているのです。どうすればダム経営ができるのでしょうか」と質問しました。一瞬困ったような顔をして松下は、こう答えました。

「まず願うことですな。願わないとできませんな」。あまりにも当たり前の答えに、具体的なノウハウを期待していた聴衆の間には、「なんだ、そんなことか」という失笑、ざわめきが起きました。

しかしそんな中に頭をガツンと殴られたようなショックを受けた1人の経営者がいたのです。京セラを立ちあげ、軌道に乗せようと懸命に奔走していた頃の稲盛和夫氏です。稲盛氏は後に、こう言っています。「何か簡単な方法を教えてくれ、というような生半可な考えでは経営はできない。できる、できないではなく、まず、おれは経営をこうしようという強い願望を持つことが大切だ、ということを松下さんは言っておられるのだ。そう感じたとき、非常に感動しましたね」 

松下は、みずからの事業体験を通じて、何事を始めるにも、まず強い願い、志を持つことが出発点で、強い願い、強い志がなければ決して事は成就しない、と考えていました。だからこそ、こうも言うのです。「本気になって志を立てよう。命をかけるほどの思いで志を立てよう。志を立てれば、事はもはや半ば達せられたと言ってよい」松下は「立志」と書きながら、みずからの思いの強さを確認していたのかも知れません。

(松下幸之助「真筆集」永遠の言葉』より)

志をたて、願望を実現するためには、その考えの「正当性」を前提として、念いの「強さ」と「継続性」、そして「公益性」が重要となります。「強さ」については「思う」⇒「想う」⇒「念う」の順番に強くなります。喩えるなら「思う」は水に文字を書くように、一瞬一瞬、頭をよぎる程度のものです。「想う」は砂に文字を書くような感じで、一定の継続性と方向性は持っています。そして「念う」は岩に文字を刻む強烈な願望です。「念力」と言われるように、強烈に一点に念いを集中します。

このように、考え方も「念い」まで到達しないと現実化する物理的な力を帯びないものなのです。そして「念いの強さ」は一定期間の継続性がなければ成就しません。一時的に、気まぐれに思っただけでは実現しないものなのです。そして「公益性」は「協力者」を呼び込みます。(反社会的な願望だと「世の中から阻止する力」が働いてきますので、実現しにくいと言えばわかりやすいかも知れません)大きい事業は特に協力者なしで成就するものではありません。

最後に筆者がもっとも気をつけている点は、前提にある「正当性」、自分自身の「動機」です。この「動機」が正しいものであれば、協力者だけではなく「天」をも味方につけることになるからです。(歴史の中で異常性のある発展を遂げた事業家などはこのタイプが多いと言われます)ですから筆者は、皆さんが願望を持つ際には「私的願望」と「公的願望」を調和させることをお勧めします。自分のためだけの成功や発展というものは長くは続かないものです。自分の成功が他人にも喜ばれるような調和した姿が大切です。

この「動機の正当性」は、その人が望むに相応しい願望であるかどうか、その願望の動機において不純なるものがないかどうかが問われます。動機の正当性におうじて、正当なる成功・発展のレールに乗ることができるのです。その動機において「乗る列車。即ち人生のゴール」が決まります。

10年、20年を経過して「私の望んだ成功はこんな姿じゃなかった」という場合は、この最初の「動機の正当性」が自分の良心に照らして道を外れていたということです。これは念いという「種子」の段階がいかに重要かをあらわしています。アサガオの種にはアサガオの花しか咲きません。 ヒマワリの種にはヒマワリの花しか咲きません。晩年に人生を嘆く人がいるとしたら、自らの望む花を咲かせるために、それに相応しい種子を蒔かなかったことに原因があるのです。それだけ最初の「動機の正当性」は重要なものなのです。

ともあれ何事もまず思うことから始まります。強い念いはおのずと目標を明確化し、計画をつくり、協力者を募るものです。ゆめゆめ自分の念いの弱さによる不成功の原因を、他人のせいになどしないよう自戒し努力を継続してゆきたいと思います。 

以下、1千万部以上のベスト&ロングセラーとなり、20世紀アメリカの繁栄の基礎を築いたナポレオン・ヒルの名著から、関連する文章を抜粋いたします。

Thoughts Are Things

Truly, “Thoughts Are Things,” and powerful things at that when they are mixed with definiteness of purpose, persistence, and a burning desire for their translation into riches, or other material objects.  

(Napoleon Hill “THINK & GROW RICH”)

思考は物体である

実際に「思考は物体」なのであるが、その思考がはっきりとした目的や忍耐力、そして思考によって富を得たい、もしくは具体的な物を得たいという燃えるような願望と混ざり合ったときに、強力な物体となる。<ナポレオン・ヒル<現代成功哲学>

「ドラッガーのリーダーシップ論」

今日は筆者の尊敬する、ドラッカーのリーダーシップ論についてコメントしたいと思います。 まずドラッカーが定義するマネジメントの役割は、 【使命】    組織の目的と使命を定義する 【顧客の創造】 仕事を生産的にし、働く人々…

「経営は生きた総合芸術 経営者は総合芸術家」

今日は、松下幸之助さんの「経営は芸術である」という言葉をご紹介させていただきます。

筆者がこの言葉に出会ったのは、もう20年も前になるかと思います。当時の筆者は20代でしたが、この言葉の意味を理解できなかったことを記憶しています。
なぜなら企業活動における組織図、請求書、見積書など、どれをとっても、筆者にはすべてが無機質なものに見えていたからです。
しかし時間の経過とともに、この言葉の意味が、自分自身に少しづつですが沁み込んでくるようになりました。
それはやはりマネジメントの経験をさせていただき始めた頃からでした。

先月のメルマガにも書かせていただきましたが、すべての企業活動は「自由意思、個性を持った人間」が営んでいます。
そうである以上、企業活動だけが人間性を度外視して、経済至上主義や完全な合理主義の追求であったり、指揮命令や指示が機械的であってうまくゆくはずがありません。ですから奇異に聞こえるかも知れませんが、「真・善・美」や「創造の自由」に対する感性やモチベーションを経営に持ち込むことは、
合理的でごく当たり前のことであると筆者は思うようになりました。

特に「知識労働者」と言われる人々のマネジメントにおいては「言われた通り動け型、上意下達型」の、性悪説的な管理は不向きです。
知識労働者の生産財は彼らの「頭の中」にあります。これらは流動性の高い現在の企業環境にあって「企業間を持ち運び可能な」生産財であり、
知識労働者が会社を移動する際に一緒に失ってしまうものです。
筆者は20代の頃にドラッカーの書籍などを読んでいたので「現在の管理型マネジメントは早晩淘汰され主流ではなくなるだろう」と思っておりました。
要するに「管理型マネジメントの芸術性は低い」と筆者は考えています。

また経営を別の言葉で喩えるならば「生モノ」であるとも言えそうです。これは料理にも似ています。
旬の食材、料理の技術、器やお店の雰囲気、値段、料理を出すタイミングなど、すべての要素を総合的に判断してお客様は対価を支払う、といったところも似ていますね。翻って企業では、完成したばかりの組織図からは経営者の「ナマの」思想や意気込みなどが伝わってきます。
しかし過去のものを見ても何の興奮もありません。

経営とは「現在ただ今」の、人・モノ・カネ・情報・時間、外部環境や、その他あらゆる現時点における条件を考え抜き、
投下したリソース以上の価値を生み出す行為です。
筆者も「経営は芸術である」という経営の神様の言葉に、いまは共感できる気がします。

以下、松下幸之助さんの言葉もあわせてご紹介させていただきます。

「経営は生きた総合芸術、経営者は総合芸術家」

経営者というものは、私は、広い意味で芸術家やと思うのです。

というのは、経営というものは一種の総合芸術と思うからです。

一枚の白紙に絵を描く、そのできばえいかんで、いい芸術家と評価され永遠に残る。
要するに、白紙の上に価値を創造するわけですわな。
これ、経営と同じです。

むしろ、われわれ経営者というものは、白紙の上に平面的に価値を創造するだけじゃない。

立体というか、四方八方に広がる広い芸術をめざしている。

それだから、生きた芸術、総合的な生きた芸術が経営だと―そういう観点で経営を見なければならんというのが、私のとらえ方です。

そういう目で見ると、経営というものはすばらしいもので、経営者というものはたいへんな仕事をする人なんです。

ところが、なかなか世の中はそう評価してくれませんけどな(笑)。

単なる金儲けとか、合理的な経営をするとか、そんな目からだけ見たらいかん。

結局、人生とは何なのか、人間とは何かというところから出発しなければいけない。

それは、人前では商売人です。
毎度ありがとうございますと言うているけれども、内心では、すこぶる高く自分を評価しているんです。

総合芸術家なんだと。
だから、その評価に値するだけの苦心なり、悩みがある。

これが経営者というものの本来の姿です。

(『松下幸之助・経営の真髄』 PHP研究所)

(紺)

「経営の王道について考える」

今日は「経営の王道」について考えてゆきたいと思います。

「経営の王道」などとタイトルしますと、ずいぶんと大上段に聞こえますが、
なぜ私がこのようなタイトルにしたのかということを書いてゆきたいと思います。

その理由は「同じ人生の時間を使い、ある事業は世界規模となり、
ある事業は1年と持たずに倒産してしまう。

この違いはいったい何なのだろうか?

経営にも王道・覇道があるのではないか」という疑問があり、
これを常々考えていたからに他なりません。

私の考えた「経営の王道」とは「基本」「原理原則」「法則」に忠実であることでした。
尊敬する松下幸之助氏がいうところの「天地自然の理」に従って
経営を進めることが、やはり王道ではないかと思うようになりました。

そしてさらに、王道経営の基(もとい)は何であるかと考えてゆくと、
経営主体である「人」に辿りつきました。

これを言うと「古いし青くさいな。外資のやり方を知らないの?」
という方がいらっしゃいますが、私は決してそうは思いません。

考えれば当たり前のことですが、お客様も、取引先も、社員も、
自分も、どの時代、どの国に行っても、
商売・事業や経営に携わるのは、すべて「人」です。

その「人」が何を目的として、何を喜び、悲しみ、
人生の半分とも言える長い時間を仕事に費やしているのか。

この問いを離れて経営を考えることは、
かえって「合理性のない」ことであると私は思います。

「働かなければ生きてゆけないのだから、
そんなことは考えるだけ無駄だ」と言われるかもしれませんが、
「働く動機」とは果たして「ただ生きてゆくため」だけなのだろうかと自問自答してみると、
少なくとも私自身においては、それだけではありません。

ましてや「エコノミックアニマル」という言葉のように
「経済合理性だけを追求している人」というものに私はお会いしたことがありません。

人は誰しも、何らかの形で「より良く生きたい」という欲求を持っているものです。
一定の合理性を追求しつつも、合理性だけで割り切れない感情を含めた
「幸福」を求めて生きているのです。

ですから「あなたは不幸になることを目的として生きていますか」と問われて
「はい」という人には滅多にお目にかかれないでしょう。

このように経営主体であるすべての「人」が「幸福」を求めています。
「経営主体である「人」が求める幸福。これを念頭に経営を考えてゆくことは、
極めて合理的な「経営の王道」なのではないか」と、
いつしか考えるにいたったという次第です。

また、経営の王道について表現を変えて説明するとすれば「Win&Win」です。
古く仏教で言うところの「利自即利他」を基本とした経営とも言えます。
世に本当の「独り勝ち」はありません。

「Win&Win」を基本としつつ、経営に投下した価値以上の付加価値を生み、
事業を採算ベースに乗せ、発展のためのコストである利益を出し続け、
事業に携わるすべての人の幸福を可能な限り追求し続けることが、
私の経営の王道と言えそうです。

これらのことを念頭におきながら、
日々の実践の中で私の心の琴線に触れた経営に関する事柄について、
気取らず、飾らず、率直に書き綴ってゆきたいと思っています。

ともあれ、読んでいただいた皆さまの、何らかの「経営のヒント」になれれば、
これに勝る幸せはありません。

気楽におつきあいいただきたいと願う次第です。(紺)

「考えには力がある③」

『私自身の経験から言うと、「失敗に見舞われたときほど成功に近づいているときはない。なぜなら、そういうときこそ人は考えざるを得ないからだ。正しく、かつ粘り強く考え続ければ、いわゆる「失敗」も、新たな計画や目標で自分自身を装備せよという合図にすぎないということがわかる。一方、本物の失敗は、たいてい自分で自分の心の中に設けた限界によるものが多い。それとて、一歩前に踏み出す勇気さえあれば、そんな自分の誤りに気づくことができるはずなのだ。』(アンドリュー・カーネギー)

これは1908年にナポレオン・ヒルがアンドリュー・カーネギーに行ったインタビューで、アンドリュー・カーネギーが語ったと言われる言葉です。

「六中観」

今年も本当に早いもので、もう師走です。

筆者にとっては今年の振り返りと来年への目標を設定する時期です。毎年恒例で「お籠り」をするのですが、今年は房総半島方面でしっかりと静寂の時間を取り自己反省をします。(しかしながら現時点でだいぶ未達事項が多くすでに反省が始まっています)